甲斐ちゃん

毎年病院の片隅でそっと花開く、可愛らしいピンク色をした桃の花。
この桃の花は26年前からずっと私達のそばで静かに咲き続け、心を和ませてくれています。

開業して間もない頃、一匹の仔猫との出会いがありました。
昔住んでいた自宅の隣のおばあさんから「仔猫が迷い込んだから来て!」と主人が呼ばれ、そのまま自宅に連れて帰って来ました。

仔猫は感染症に罹り、目ヤニと鼻水で顔はぐちゃぐちゃ、片目は目ヤニで塞がり、身体中が泥で汚れ、げっそりと痩せこけて、声は鳴き続けたせいなのかガラガラ声で、それはそれは悲惨な状態でした。

小さい頃に怖い思いをしたことが切っ掛けで、“猫”という存在が世の中で一番苦手だった当時の私。それなのに、なぜかその猫ちゃんが「先生、私のこと治してね」と毎日やってくる、そんな猫ちゃんやワンちゃん達の病気を治す動物のお医者さんのところに嫁ぐことになりました。

覚悟はしていたものの、初めて会った仔猫のあまりの恐ろし過ぎるその姿に、私は全身硬直し、「この子を病院の子にするから・・・」の主人の言葉に、思わず「止めて~」と泣き崩れたのが34年前のことでした。

お嫁入り前に聞いていた「怖いなら何もしなくていいからね」の主人と義母の言葉に、「でもそんな訳にはいかないよな!」という覚悟と、「私も苦手を克服したい」という前向きな思いがありました。
そうは言っても、毛色もとても可愛らしいとは思えないサビ色で、最初から最も苦手とするこんなタイプの猫ちゃんは「無理無理!!絶対に無理!」と、本当に心底無理な私でした。
でも私が受け入れられないということは、そのまま保健所行きになるということで、「それでもいいのかぁ~!!」と言われたら、受け入れるしかなくて・・・(涙)。

甲斐犬と同じ色をしていることから付けた名前は「甲斐ちゃん」。ということで、甲斐ちゃんはその日から大切な「病院の仲間」となりました。



早速、猫の甲斐ちゃんに慣れるための特訓開始です。
小さな甲斐ちゃんのことが怖くてたまらない私にとっての『先生』が、トイプードルのミルキーでした。

怖がる私の前で、ミルキーは当たり前の様に甲斐ちゃんに近付いて行きました。
無防備に近付いて来るミルキーが怖いのか、甲斐ちゃんは背中を丸め、全身の毛を逆立てて、自分のことを精一杯大きく見せ、威嚇していました。

それでもミルキーは甲斐ちゃんの動きを気にすることなく近付いて行き、そんな繰り返しの中で、次第にミルキーを受け入れて行ったようでした。
そんな二匹の様子を見て、「私も挑戦してみなくては」と思い、「ミルキーが怖がらないということは、自分が思っているほど怖くないのかも。だからきっと大丈夫!」と自分に言い聞かせながら、少しずつ近付いて行きました。

椅子に座り、甲斐ちゃんを膝の上に乗せてみました。
膝の上で「にゃお~ん」と鳴いている仔猫に緊張し、本当に怖くて鳥肌が立ってしまうのです。
こういう感情は理屈ではないので、どうしようもありません。
「でもここを何とか克服しなくては」と思って、繰り返し頑張りました。

甲斐ちゃんに触れることが出来るようになって行く自分のことが嬉しくて、「背中に触れた」と言っては喜び、「抱っこが出来た」と言っては感激し、段々変わって行く自分に驚きと感動を覚えたものでした。

今考えても、よくそんな私が受付で対応ができたものだなと思いますが、それでも病院にみえる患者さんの猫ちゃんに触れないということはありませんでした。
主人に指導してもらいながら、自分なりにとても頑張っていたという記憶があります。

ちなみに歴代のスタッフの中にも意外に動物が苦手だったという子が多く、私を含めてみんな今ではその動物がいない生活など考えられない程に、動物たちに魅了されています。なんだか面白いものですね。



ある日、シェルティーのMIXが保護され、やって来ました。
「ハチ」と名付けたその仔犬は小熊の様に愛らしく、甲斐ちゃんと同じように「病院の仲間」となりました。

甲斐ちゃんとハチはとっても仲良しで、時々一緒に犬舎の中に入れてあげることがありました。
すると楽しそうにバタバタとじゃれ合い、しばらく遊んだ後はちょこんと並んでこちらを見ていました。その姿がなんとも微笑ましくて・・・♡
甲斐ちゃんにとって、ハチは一番大切な仲間となりました。

それからしばらく経った頃、甲斐ちゃんにとって大切な存在となる猫ちゃんがやって来ました。母親を知らずに育った甲斐ちゃんに、母親の様に優しく接してくれた迷い猫のメイちゃんです。

二匹は小さな箱に入り、甲斐ちゃんが母猫に甘える様にメイちゃんのおっぱいを吸い始めたのです。
いつも手でもみもみしながら、ひとつの乳首だけ吸い続けるので、その乳首だけが妙に大きくピンク色になり、なんだか可笑しくて笑ってしまいました。
メイちゃんもそんな甲斐ちゃんを嫌がることなく受け入れてくれたので、甲斐ちゃんはメイちゃんに甘え、優しいお母さんの味をいっぱい味わえたのではないでしょうか。

その後メイちゃんは、叔母が里親になってくれたことで、しあわせに暮らすことが出来ました。



そんな甲斐ちゃんは、もうすぐ5歳になろうという時に腎臓病を患い、朝と晩の投薬と、一日おきの点滴を始めることとなりました。

甲斐ちゃんは点滴をしようと迎えに行くと、犬舎の中で向きを変えこちらにお尻を向けて、ちょっと抵抗してみせました。

でも点滴をしている時はいつもいい子で、膝の上でじっとしたまま体を丸め、時々いたずらっぽい目をして私を見つめ、私の顔に自分の頭をぐりぐりと押し付けて甘えるのです。
そんな姿が本当に可愛らしくてたまりませんでした。

その頃にはスタッフも加わり、一緒に可愛がってお世話をしてくれました。何か変化があった時も、スタッフの迅速な対応のお蔭でいつも持ち直してくれるので、ほっとしたものでした。



当時は甲斐ちゃんとハチと一緒に、夜の病院でよく遊びました。
ハチがあちこち走り回り、甲斐ちゃんは椅子やカウンターに登ったり、観葉植物の葉っぱを食べて、私に叱られたこともありました。
またハチに追い掛け回されて検査台の後ろやレントゲン室に逃げたり、逃げる所がないと廊下の奥まで走って行き、行き止まりで降参したかのようにお腹を見せて、ハチに舐められて、体中ヨダレだらけにされていました。そんな二匹は本当に仲良しでした。



甲斐ちゃんの病状は徐々に悪化していきましたが、亡くなる3日前にも夜の診察室を歩いたり、検査室を走るハチと私の後について走って来ました。どこにそんな力があったのでしょう。

最後の頃に、甲斐ちゃんを抱っこしてよく語り掛けました。

調子が悪くても頭をすり寄せて甘えて来たり、私の後をついて来たり、声も出ないのに“にゃーにゃー”と出そうとしてみたり・・・。
目を閉じてとても辛いはずなのに、最後の最後まで声を掛けると尻尾を勢いよくビュンビュン振って応えてくれました。その健気さと尻尾の動きは一生忘れられません。

そして甲斐ちゃんは約3年の闘病生活を経て、7歳と7ヶ月という短い生涯を閉じました。

甲斐ちゃんを可愛がってくれたスタッフが、「甲斐ちゃんのそばに、ハチをいさせてあげてください」と提案してくれました。そこで甲斐ちゃんの部屋の扉を開けると、ハチがササッと勢いよく入って行きました。

甲斐ちゃんの顔をペロペロ舐めたり、いつもの様に手や足を触るのですが反応が無いので「ねえねえ」とでも言っている様に、背中を噛んだり何度も引っ張ってみたりしていました。
いつも楽しく遊んでいた甲斐ちゃんが、ちっとも動いてくれないのでハチはおかしいと思ったのか、動きを止めました。そして身動きひとつせずに、どこか遠くの方をずっと見つめていました。

そんな姿が切なくて、ハチを自分の犬舎に戻しました。すると隣の甲斐ちゃんがいる方をすごく心配そうに、じ~っと見つめ続けていました。あんなに哀しそうな目をしたハチを見たのは初めてでした。

二匹でじゃれ合って遊ぶ姿をもう一度見てみたいと、心から思いました。


あんなに怖いと思っていた甲斐ちゃんでしたが、実際はその姿とは反対に、素直で優しくとても愛らしい猫ちゃんでした。
「甲斐ちゃん」と呼ぶとまん丸い目でキョロっとこちらを見て「ニャオ~ン♪」と言って、体をくねらせて甘え、手を差し出すと頭をグリグリ押し付けて、横になって頭を丸めて喉をゴロゴロ鳴らし、お腹をさすってあげると手をもみもみして、気持ち良さそうに手足を押し付けてきました。

そんな甲斐ちゃんは、私に最後の最後に動物とのお別れの辛さを教えてくれました。こんなにも動物とのお別れが切なく辛いものなのかということを、この時初めて身を持って知ることが出来ました。
またあんなに苦手だった猫ちゃんが、こんなにも優しく愛らしい存在であるということも教えてくれました。そんな甲斐ちゃんに、心から感謝しています。

甲斐ちゃんとのお別れの後、自分の中がこんなにも空っぽになってしまうなんて、思ってもいませんでした。
何もする気が起こらず、好きなお料理もしたくなくなり、ただただ甲斐ちゃんの事を思い出しては、泣いてばかりいました。

そんな甲斐ちゃんの事をずっと忘れないように、何か記念になる事をしたいと考え、購入したのが桃の苗木でした。

なぜその時桃の苗を購入したのかは思い出せないのですが、きっと可愛らしいピンク色の桃の花が、可愛らしい甲斐ちゃんのイメージにぴったりだったのではないかと思います。

桃の苗木は病院の一番奥の片隅に植えました。
毎年奥の方でひっそりと咲いているので、桃の木の存在に気付かれた方は少ないのかもしれません。でもそれも甲斐ちゃんらしくていいかな~と思っています。

甲斐ちゃんの桃の木も、2022年の今年、樹齢満26年になりました。この26年間、大切に育てて来た「甲斐ちゃんの桃」には、これまでの思い出がいっぱいです。

可愛らしい花が咲き、沢山の小さな実をつけ「美味しい桃になります様に・・♡」と思いを込めて、みんなで摘芯や袋掛けをして来ました。みんなでワイワイ言いながらの作業も楽しいものです。




全くの素人なので味の方はちょっと薄味で、消毒はごくごく少量なので虫に食べられたり傷が付いたりで、なかなか思う様なものは出来ません。
でも甘い桃が獲れる年もあるので、そんな年はワクワクです♪

また甘さが薄い時はコンポートを作ったり、スープに挑戦したこともありました。そして今年はジャムに挑戦しました。
でもそれより、何と言っても桃の花がパッと綺麗に咲いてくれることが、なにより嬉しいことでした。

26年経った今でも、可愛らしい桃の花が咲くと、優しく愛らしかった甲斐ちゃんの事を思い出せることは、ステキなことだなぁって思っています。



以前に甲斐ちゃんの桃の花を見て、その時の素直な思いを綴ったことがありました。
ここに、その文章を載せさせて頂きたいと思います。

甲斐ちゃんを亡くした時、本当に悲しくて・・・
あまりにも切なくて、まるで胸が引き裂かれた様に辛かった。

でもあの時、甲斐ちゃんを想い桃の苗を購入したお陰で、あの時からず~っと甲斐ちゃんが身近にいるような気がしています。

春になって桃の蕾が膨らむと「甲斐ちゃん、蕾が膨らんで来たね」と、そっと木の幹に触れながら話しかけ、

ピンクの花が咲くと「甲斐ちゃん本当に可愛いね、きれいだね」と微笑んで、
桃の実がなると「甲斐ちゃん、いつも本当にありがとう」とみんなで感謝して頂く。

そんなことを繰り返し、今も甲斐ちゃんはみんなのそばにいてくれるような気がしています。

大切な動物たちとのお別れは、本当に淋しいものです。何度経験しても、本当に辛いものです。

でもこれからもお別れのその時が来たら、精一杯生き切ってくれた動物たちにいっぱい「ありがとう」と感謝して、お別れをしたいと思います。
いっぱい泣いた後は、優しい笑顔で見送りたいと思います。

そしてお別れした後も、ずっとずっと忘れることなく、時々心の中で呼びかけて、それぞれの子のことを、ずっと大切にして行きたいと思っています。

甲斐ちゃんの桃も、ずっとず~っと大切にして行きたいと思っています。



大切な動物たちと悲しいお別れをした方達が、また元気を取り戻して行かれますように・・・

今もこうして私達のそばで咲き続けてくれている“甲斐ちゃんの桃の花”
今年もとっても綺麗です。




甲斐ちゃん、たくさんの思い出をありがとう。
甲斐ちゃんと出会えて、本当に本当にしあわせだったよ。

これからもずっと思っているからね。

担当 増田葉子

 

 

 

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