マスダ動物病院のエピソード
光を失ったノラ猫・黒ちゃん
平成20年1月16日に、1匹の黒い猫が血まみれの状態で病院に運び込まれました。
連れてみえたのは中学校の教頭先生で、丁度生徒さん達の目の前で車にはねられ、負傷した所を保護し、連れてきてくださったということでした。
その猫の様子を確認すると、顔面を強打したのか目も鼻も出血によりどんな状態になっているのか分からず、口の端からは血液交じりのよだれがぽとぽとと流れ続けていました。
全く動く気配がなく、おとなしくて動かないのか、重体で動けないのかもはっきりと分かりませんでしたが、この弱った状態では血液検査のために採血をしたり、その他レントゲン検査等をすること自体がストレスになってしまうだろうと考えられたので、取り敢えず止血剤や抗生物質の注射等、緊急処置をしてお預かりすることとなりました。

 

身動きひとつしなかったその子は、一夜明けた次の朝、昨日とは打って変わって凶暴な姿に豹変していました。この様な変化は全く予想することができませんでしたが、この状態から恐らく野良猫か、もしくは誰かにえさだけ与えてもらっているような半野良状態の子に思われました。
取り敢えず、麻酔をかけて目や口の状態を確認することにしました。
右目を縫合しています検査の結果、上顎も下顎も骨折しており、下顎の先の一部分が、前歯4本と犬歯1本と共に根こそぎ骨ごとぱっくりと割れ外れかけていたので、そのまま緊急の手術に入りました。
外れかけたその部分は、薄皮一枚だけでぶら下がっているような状態で元通りに繋げることは不可能なので、まずはその部分を取り除き、下唇をその欠損部分を覆うように縫い付け下顎にしました(今はもうすっかり綺麗になっています)。その他にもぐらついている何本かの歯を抜歯し、口の中の手術は終わりました。
また、目の方は、右目が眼球後部からの出血により眼球が飛び出し、目が閉じられない状態でした。
そのままにしておくと、角膜に感染が起こり痛みが出てきたり、膿んで変形や変色、萎縮などの問題が出てくるため一時まぶたを縫合し、まずは眼球を保護することとしました。こちらの目の方も、今はとても綺麗に戻っています。
そして左目は眼内出血のため真っ赤に腫れ上がっていました。しかし残念ながら事故に会った時既に目の視力は失われており、努力の甲斐もなく、結局この事故によりこの猫ちゃんは突然両目の視力を失うこととなってしまいました。

 

最初院長の考えは、全く人に慣れず、恐怖のため攻撃してくるこの子のお世話はとても無理だし、これから治療も食事を与えることも出来ないだろうから、必要な処置をした後、様子を見て外に放してあげた方がいいというものでした。
しかしその後、失明が判明したことで更にお世話は大変だし、現実的に黒ちゃんが生きて行くのは無理だろうという意見に変わって行きました。
それでも飼い主さんがみつかるか、または飼ってくださる方を見つけるまでなんとかお世話をしたいとお願いをし、しばらくの間病院でお世話をすることになりました。
また偶然にも、事故現場に居合わせ、保護してくれた生徒さんの中のお一人が私の知人のお嬢さんでした。そのお嬢さんが猫ちゃんのことを心配してくれて、チラシを作って飼い主さんを探す協力をしてくれることになりました。

 

早速その猫ちゃんの名前を決めました。呼び名は可愛らしい名前を付けたかったのですが、万が一この子が飼い猫だったとしたら、きっと黒ちゃんと呼ばれていただろうからと、既に院長が黒ちゃんと呼んでいたので、その日から見たそのまんまの「黒ねこ黒ちゃん」となりました。

 

しばらくの間だけでも生きながらえる、お世話が出来るとほっとしつつも、その後のお世話のことを考えると、実際に触ろうとしても全く無理な黒ちゃんを、これからどうしていったらいいんだろう……それがその時の私の正直な気持ちでした。
お世話をすると言ってもあまりに警戒心が強く、実際にフードをあげることも不可能で、ミルクやフードを置いても食べる気配がないので、鎮静をかけてから点滴や栄養価の高いペースト状のフードを、口からカテーテルを通して入れることにしました。
しかしこれから毎日ずっと鎮静をかける訳にも行かないので、どうしたら食事を与えることが出来るのか色々考えて、ひとつずつ出来ることを試して行くことにしました。
またどなたかに飼ってもらえる日のために、抱っこの練習をして行こうと思っていたので、食事を与えるために鎮静をかけた後、まだ少しぼ〜っとしている間に猫ちゃん用のネットに入れて、抱っこの練習を始めてみました。

 

その数日後、思い切って鎮静をかけずに、そのままネットに入れご飯をあげることにトライしてみました。
「ハー・フー・シャー!バシッ☆」っと、とにかくすごいので、ネットに入れる際に、狂った様に暴れたりはしないかととても怖かったのですが、なんとか無事に入れることが出来ました。
ネットに入りタオルに包まれた黒ちゃんは降参したのか抵抗もせず、注射器で流動食を与えると勢いよく飲み込み、スプーンでも、更に私の手からも上手に食べてくれました。
半月ほどたった頃には、少しくらいなら嫌がることなく身体を触らせてくれることもあり、大変ながらも黒ちゃんのお世話がとても楽しくなっていきました。
そしてその頃から黒ちゃんが人に慣れるようにと、スタッフのみんなにもお世話を手伝ってもらうようにしました。まだこの頃は、これならどなたかに飼って頂ける黒ちゃんにいつかなれるかもしれないと希望を持っていました。

 

しかしその後、黒ちゃんの様子が徐々に変わって行きました。
複数でお世話をするようになり混乱してしまったのか、良かれと思ってしていたことが、逆に黒ちゃんにストレスをかけ、怖い思いをさせてしまったのかもしれません。
いつの間にか食器が身体に触れるなど、何かのきっかけで急にシャー!シャー!!と怒って手が出るようになり、お世話をしてくれるスタッフに爪を立て、怪我をさせてしまうことも度々ありました。
全盲なので急に何かが触れれば怖くなるのは分かるのですが、そのあまりの激しさに、私も攻撃してくる黒ちゃんのことがどんどん怖くなっていきました。
あまりに怖いので、一度主人に代わって食事を与えてもらったのですが、更に怒ってパニックになり、全身で抵抗するその姿を見て益々怖くなってしまいました。私だけがお世話をしていた時は、私には頭も身体も手さえも触れることができていたのに、とうとうどこも触れなくなってしまいました。

 

当初お世話がどんなに大変で無理なことだと反対されても、お世話したい、頑張りたいと言い続けていたのですが、日に日に抵抗するようになっていった黒ちゃんを持て余し、これ以上お世話が出来ない、でも外に放すことも出来ないと、どうしていいのか完全に分からなくなってしまいました。
またしばらく知人からも学校からも連絡がなく、もっと関わってこれから先のことを引き受けて行って頂きたいと思っていたのに、全てを病院に託しているかのように感じ始め、いずれ飼いたいと言ってくださるような方も見つかりそうもないし、何もかもがうまく行かず、八方塞の状態に、これからどうして行ったらいいんだろう、もうこれ以上無理かもしれない……と、絶望的な思いに包まれてしまいました。
そしてそれまで私の中にはなかった「安楽死」という三文字が頭に浮かび、そんな自分にとても落ち込み涙がこぼれ落ちました。その後、そんな日々が何日も続きました。

 

しかしありがたい事に、一番辛かったこの時期に、とてもタイミングよくしつけの専門の先生にお会いする機会に恵まれ、ご相談する事が出来ました。
そこで色々なアドバイスと共に、「とにかく気長にやって行けば、きっと慣れる時が来るはずですよ。焦らずにゆっくりと!」と言って頂き、もう一度希望の光が見えてきたような気がしました。
更にその数日後、お嬢さんを連れて知人が黒ちゃんに会いに来てくれました。
聞くとお嬢さんもひとりで頑張ってチラシを作り、色々な所に貼ってもらいに行ってくれていたということでした。こうして気に掛けて黒ちゃんに会いに来てくれたことが分かって、とても嬉しく思いました。

 

思い起こせば事故直後のとても手が付けられないような状態だったあの時は、出来る手段がほとんどないけれど、一生懸命関わっていこうと決めていました。
とても手がつけられなかった黒ちゃんでも、沢山声を掛け接して行く中、毎日何らかの変化があり嬉しいことの連続でした。期待していなかっただけに、ほんの少しの変化がとても嬉しい毎日でした。
それがいつの間にか黒ちゃんに無理をさせていることに気付けず、いつかどなたかに飼って頂けるように、早く人に慣れさせようと、そのことばかりになっていたのかもしれません。
でもそれは目の全く見えない黒ちゃんにとっては無理なことでした。しつけの先生に「焦らずゆっくりと!」と言って頂いて、もう一度はじめから、ゆっくり向き合って行こうと思い直すことが出来ました。

 

ふと犬舎を覗いてみると、ちょこんとお座りして毛づくろいをしている黒ちゃんが見えました。
今まで奥の方で常に身構える様に身体を硬くしていた黒ちゃんが、リラックスしてくつろぐ姿を目にして、とても驚いてしまいました。
その後も扉の近くにいて、扉を開けるとすぐに奥に下がっていたのが下がることなくじっとその場にいたのを見て、少しずつでも変わって行っているんだな〜ととても嬉しくなりました。
“やっぱり諦めない”黒ちゃんが来て、丁度ふたつきたった頃のことでした。

 

それから数日後、麻酔をかけて黒ちゃんの眼の抜糸と爪切り、そして歯の先端を削る処置が施されました。
お世話する際に咬まれたらとても危険なので、これで黒ちゃんが威嚇したり、抵抗して爪を立てたり咬みつきに来ても、前よりは少しはいいだろうとホッとしました。
更にその数日後には、教頭先生も様子を見に来てくださいました。
「一向に飼い主さんが見つかりそうにないので、学校では生徒の父兄に事情を話して、それでも飼ってみたいという家庭を探してみようと話しているところです」とお話をしてくださいました。こうして責任を感じて、何かしようと関わってくださることを本当に嬉しく思いました。
するとなんと院長の口から、意外な言葉が出てきました。
「今のままの黒ちゃんでは、飼ってくれる人が見つかったとしても、家族の人に怪我でもさせてしまったら大変なことなので、もしこのままの状態なら、当院で面倒を見て行きますから……」と話してくれたのです。
あんなに「無理だ!」と言っていた主人が、なんの迷いもなくそう言ってくれて、本当に嬉しくなりました。もうどんなに時間がかかってもいいと思いました。
黒ちゃんが人を信頼し、普通の生活が出来るようになれたらいいな。もし出来ることなら、いつか抱っこが出来るようになれたら本当にいいな!と夢が広がりました。

 

それからひと月半たった頃になると、扉を開けるとご飯がもらえるものと思い、自分の方から前に進んで来るようになりました。
じ〜っと見据えられると、まるで今にも飛び掛ってきそうな迫力があり恐怖を感じますが、手の平の上のフードをペロペロしながら食べる時、舌が触れた感触や、一生懸命食べている様子が、なんともいとおしく感じられました。
と言いながら、手からフードを与えている時も汗だくで、汚れているペットシーツを抜き取り、新しいタオルとペットシーツを敷く、たったそれだけの作業の時もとても怖く、まだ何をするにもドキドキな私でした。
しかし怖い怖いと思う自分を克服し、少しでも黒ちゃんとの距離を縮めたいという思いで、手からフードを与えることは、しばらくの間、続けて行こうと決めたことでした。

 

こうして黒ちゃんをずっと病院でお世話することになったのですが、動物好きのスタッフが集まっているというのに、みんな黒ちゃんのことがどうしても怖くて、なかなか触ることが出来ませんでした。
もしかしたら黒ちゃんを無理して人に慣らせる必要はないのかもしれませんが、ずっとひとりぼっちで生きて行くのは、あまりにも淋しく味気ないものに感じられました。
交通事故で突然全盲になり、ひとりぼっちになってしまった黒ちゃんにも、黒ちゃんなりの穏やかな暮らしを手にして行ってほしい、これまで保護され病院の仲間となった先輩猫の甲斐ちゃんやさくら達の様に私達に甘え、楽しい暮らしが少しでも出来る様に、少しずつ慣らして行けたらなと思っていました。
とは言うものの、迫力のある黒ちゃんなので、やっぱり怖くてなかなか触ることが出来ません。
そこで夢中になってご飯を食べている間に触ってみたり、食べ終わった時でも直接咬まれないようにと猫じゃらしを使ってみたりと色々工夫しながら、毎日「黒ちゃん、お母さんだよ〜♪」と繰り返し声を掛けながら、触れることを続けていきました。

 

そんなある日の夜、いつもの様に黒ちゃんの元に行き、扉を開けてみました。
その場でじっとしている黒ちゃんの背中を猫じゃらしで撫でると、いつもは猫じゃらしをガブガブ咬んでくるのですが、私の声を覚えてくれたのか、じっとしたまま動きません。続けてフードなしでも触らせてくれるのかチャレンジしてみました。
手の甲で触るのが精一杯でしたが、それでもほんの少しだけ触ることが出来ました。更に思い切って手のひらで触ってみようと試みました。するとなんと、ほんの一瞬でしたが触ることが出来ました。本当にビックリです!
その後も猫じゃらしで、ずっと背中を撫でていました。黒ちゃんにとっても猫じゃらしで触られるのが気持ちよくなって来たのか、目を閉じじっとしていました。
こんなことは初めてで、黒ちゃんとのこれまでの道のりを思おうと、とても信じられないことでした。
きっと近い将来、もっとしっかり触ることが出来るようになれるかもしれない。ず〜っと怖かったので言えなかった「黒ちゃん、お母さんは黒ちゃんのことが大好きだよ〜。ずっと一緒にいようね!」の言葉を、この時初めて心から伝えることができました。
“どうかこの思いが黒ちゃんに届きますよ〜に…♪”

 

そう言えば黒ちゃんは猫なのに、まだ誰も鳴く声を聞いたことがありませんでした。
それが5月半ばのある日、初めて「にゃん」ととても小さな声で鳴きました。まるで女の子の様な、とってもとっても可愛らしい声でした。

 

5月31日、この日黒ちゃんが横を向いていたので、勇気を出して背中を触ってみました。
フードを手にしている訳でもないのに、触っても怒らずじっとしていてくれました。すごい!!
そして繰り返しさすっていると、下を向いて気持ち良さそうに目を細めたのです。
その少し前、スタッフがお掃除をした時は、シャーシャー怒っていたそうなのですが、私にはシャーとは全く言いませんでした。私を少しずつ受け入れてくれるようになって来たのかもしれません。
沢山声掛けをして優しく接して行けば、もっともっと受け入れていってくれるのではないかと思いました。そうしていけば、必ず黒ちゃんと信頼関係を作って行けると、やっと信じられるまでになれました。
一時はあんなに黒ちゃんと接するのが怖かったのに、またとても楽しみになって行きました。
また次の日の夜、この時もフードがないのに私だと分かっているのか怖がりもせず、伏せの姿勢のまま背中を静かに触らせてくれました。何も驚く様子を見せず、そのままの姿勢で気持ち良さそうに目を閉じたその顔、仕草がなんとも可愛らしく感じられました。
そして急に手足を動かし伸びを始めたその瞬間、触れている私の手を払い除けようとし、私も一瞬ビクッとしたのですが、その後も私に襲い掛かる訳でもなく、大人しくしていてくれました。まだ何かあると、一瞬ビクッとしてしまう私ですが、それでもこれまでの黒ちゃんのことを思うと、こんな日が来るなんて……本当に驚きです。
4ヶ月半でここまで来られました。本当はもっと時間がかかるものと思っていたのですが、こうして私のことを受け入れてくれた黒ちゃんのことが本当に嬉しくて……あまりにも嬉しくて……思わず涙がこぼれ落ちました。

 

こうして黒ちゃんは、マスダ動物病院の大切な大切な仲間となりました。
この数日間は静かに触らせてくれましたが、正直怖いという思いがまだ抜けきれません。でもこれから黒ちゃんが、またどんな風に変って行くのか、私達との関係がどうなっていくのかが楽しみなのも事実です。

 

突然真っ暗な世界の中で生きて行かなければならなくなってしまった黒ちゃんですが、どんな状況であれ、きっと黒ちゃんなりに、穏やかな暮らしをして行けるのではないかと思っています。
黒ちゃんがのんびりのほほんと暮らして行ける様に、病院のスタッフみんなで一緒に黒ちゃんのお世話をして行こうと思っています。
黒ちゃんが、う〜んとしあわせになりますよ〜に……♪
担当 増田葉子

 

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